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旧ディジョン日記(移転しました)

以前フランスの地方都市ディジョンでフランス語を学んでいました。

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連考2

ネタ切れで、ディジョン生活とは関係なく、自分の考え事を再開。

考え事といっても、まとまらないボンヤリとした考えから書き始めているので、「1」も書き直しが要るなぁなんて思いながら、放置してました。

思い切った問いを発することから再開します。「心は存在するか?」よく考えてみてください。

これは人によって、様々な回答を得られるでしょう。

あり得る一つの回答は、「心は脳の機能に依存している、よって心は脳の存在と同一視できる」というものでしょう。これは肯定・否定、両方の論拠にも、なると思う。肯定派ならば、「脳が存在するという意味で、心は存在する」となるかもしれないし、否定するならば、「心は脳の機能に還元しうる、よって心なんて曖昧な語彙は脳機能が完全に解明されれば、全て脳という言葉に置き換えられるだろう。よって心は消去しうる」、といった具合に。

脳という身体の一部に依存しない場合で、否定か肯定か選び、その論拠を示せ、といわれた場合は、結構難しいと思います。これは、ある種の「存在の意味」に関わってくると思います。どういうことかというと、「存在する」という事態をどの意味に用いるかということにかかってくる。例えば、「実際に、見たり、聞いたり、触れたりと知覚出来るもののみが、存在するということの意味であり、心は知覚できないので存在しない」というようになるかもしれない。あるいはまた、「言葉の上で心という言葉は存在していると言える。よってその実体はどうあれ、少なくとも、心は語彙として存在している」というようになるかもしれない。

行動主義心理学を見た場合、心(場合によっては脳)の機能的連関にのみ着目し、心的過程のプロセスは、いわば「ブラック・ボックス」であり、そこで何が起こっているかかは、直接には不可視のものである、というものでした(「1」より)。つまり、観察者の視点からは、被験者当人の「心」に起こっていることは、見ることも、触れることも出来ない、という一種の存在論に基づいているといえると思います。酷く乱暴に言い換えるならば、この心理学は、「心を扱う」学という名を冠しているにも関わらず、「心そのものは存在しても、しなくても構わない」という存在論に立脚していると思います。

と考えて、続きを考える必要に迫られたので、また今度。

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豊かさの尺度

タイトルは半分釣りです。引っかかったら、ごめんなさい。

ある先輩のミクシィの日記に触発されて考えたこと。

ちょっと難しい内容。


ある語学学校の先生が(どうでもいいが、この先生、すごく日本語が堪能でビックリした)、活用語尾の発音に関して言及していた時のこと。

「公式」のフランス語には、ai の綴りに対して é と è という2通りの音声があり、両者は区別される…、という説明を聞いていたとき、「公式には」という限定が付いていることで腑に落ちたことがあった。

つまり、「公式」と「実際」は違うということだ。

勿論、公式どおりに発音されることもある。
しかし、例えば、

・J'aimerais (条件法)
・J'aimerai (未来形)

のような場合、必ずしも、その区別は明らかではないということらしい。

(蛇足だが、日本人にとっては、仮定の話も未来の話も、「~だろう」という一語で済ますことが出来るので、未来形と条件法が、同じ語幹から作られる事には、親しみを覚える。)

さらに、自分自身の経験を振り返ってみると、結構いい加減な発音していても通じるときと、通じないときがある。

通じるときはさておき、通じない例を挙げておくと、

例えば、実際にやらかした間違いは、

・élection 「選挙」と言おうとした時に、 érection と聞こえてしまったこと。
 後者は生理学用語で、「勃起」…orz。

これは日本人に限らず、難しい区別だと思うが、

・cours と coeur
 前者は「講義」、後者は「心臓」を意味する。

RとLに関しては、結構な頻度でごっちゃにして発音しているのだと思うが、それでも、その間違いを指摘されないことも多い。



通じないときと、通じるときがあるという事実は何を意味しているのか…。

「公式」の発音と、「実際」の音価の弁別体系の範囲のズレだと思われる。

別の例を用いて、分かりやすく言えば、
日本語には、公式にはアクセントがあり、それに従ってある種の職業の人たちは訓練を積むのだと思うが、日常生活では、個々の語に関して、そのアクセントを気にすることはない。しかし完全に無視できるか、と言えるかというと、そうでもない。例えば、「牡蠣」と「柿」、「雨」と「飴」など、近接した音価を持つ語がある場合には、アクセントが問題になる。

これと同様に、近接した音価を持つ場合には、やはりきちんと発音の区別が出来ないと、フランス人には「?」という顔をされる。

例えば、あるスロヴァキア人は、particulier を 「パルティきゅリエ」と発音できずに、「パルティくリエ」と発音している。この語に関する限りは問題ないのだが、問題は次の2語。

・la roue:「ルゥー」と発音し、「車輪」を意味する。
・la rue:「リュー」と発音し、「通り」を意味する。

日本人は、似た音にユの音があるので(「公式」には、日本語のユより、緊張の強い音)、区別して発音しやすいが、難しいようだ。

--------

さて、本題。で、ここからが難しいと思う。

以上のことから観察されるように、公式には、厳密に区別される発音も、実際上には、ある程度の許容範囲をもつもの戸考えられる。

そこで、日本語の母音とフランス語の母音を比較してみると、フランス語のほうが、単純に母音に分類される音価が多いので、母音だけを見れば、フランス語のほうが、母音が「豊か」と言えるかもしれない。

しかし、日本語の「公式」の母音の、数の上の少なさは、裏を返せば、ある一音に相当する許容範囲の広さを可能にすると思われる。つまり、「お」や「う」などの母音をどの様に発音しようが、「お」や「う」を分ける弁別閾の許容範囲内に収まっていれば、識別が可能なのだと思われる。言い換えれば、実際の日本人がどの様に発音しているかには、様々な異なる可能性があるのに対し、それを「公式」の少ない分類に回収してしまえるというのは、個別の音価の弁別閾の広さを意味するのではないか、と考えられる。

こうやって考えてみると、「日本語は母音が、フランス語(や英語)に比べて貧弱か」と問われれば、条件つきでしか「貧弱」としか答えられないだろう。つまり、「公式」には5つしかないので貧弱、と。

実際、前々から思っていたことだが、例えば、日本語にも鼻母音がないかと言えば、僕個人としては、「ある」と思う。「そんなことないよ」を日本語の自然なリズムで話せば、「ん」は完全に口を閉じた状態では発音されないだろう。つまり「そん」で一つの音で、半ば鼻母音化しているのではないか、とずっと思っていた。

これが正しいならば、日本語の母音の体系は、単純には貧弱と言えなくなってくるのではないか。もっとも、様々に異なりうる音素も、記号的な価値(=音価の弁別閾)を持っているか、と言えば、持っていないと言う他はなく、また「公式」の分類は、日本語の場合、ほぼ記号的な価値と対応していると言えるのかもしれないが。

などと考えながら、ソシュール関係の本を日本から持ってこなかったことを少し後悔してしまった。

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連考1

前にも書いたと思うけど、このブログは複数の意図が錯綜したものになっています。今日はそれらのうちの1つの実現が目的です。

タイトルに「連考1」としたのは、自分としては、ある1つのテーマで繋がっていることに関して、考えていることを少しずつ切り分けて書こうかと思っているからです。ちゃんと続くかどうかは分かりません。そのテーマとは、「心と体の関係」。と一言に言っても、ある特定の文脈においては、「心」や「身体」は特別なニュアンスを持つことが多く、ちゃんと煎じ詰めるには下準備が必要です。今日は、「心」について。

日本語の「心」で何を思い浮かべるでしょうか?また「心」とはどの様な役割を果たしているでしょうか。まず第一に、日常的な用語法では、「感受性」のような語で言い表せることがらについて、「心」のあり方として言及されることが多いと思います。「感受性」という語も広い意味を持つので、さらに限定が必要ですが、例えば、「血も涙もない」、「冷血漢」といった意味と同等のニュアンスを持つ語として、「心無い」という形容詞が挙げられます。他にも、「心が広い/狭い」などが、「感受性」として挙げられると思います。これらのことは、物事をどう受け取るかを示していると思います。心は受動的な役割、物事を受け取り方によって、さらに言えば、そこからどの様な反応を示すかによって(「行動」の側面になると、「心」は単に「感受」の役割を果たしている、とのみ言えなくなります。それについては後述)、あの人は「心が無い」とか「寛大な心の持ち主」という、「心」のあり方に対して言及されることになります。こうした「心」の感受の役割は、常識的な「心」の理解とさほど遠くに位置するわけではないでしょう。

しかし、一方で、心は「感受」の役割だけを果たすわけではないことは、つまり「能動的な側面」があることは日常的な用語法からも頷けます。ただし、注意書きとして、どこからが受動的でどこまでが能動的か、僕自身としては、必ずしも明確に分けられると思っていないので、「受動的にも取れるじゃないか」という例になってしまうのですが…。例えば、「心構え」や「心の準備がまだ…」は、物事の受け取り方に、能動的なある種「主体」の介入が見られる例です。「細やかな心配り」や「心遣い」になると、色んなことに気配りが出来ることは、色んなことに気づくことでもあるだろうから、勿論感受性の部分を含みつつ、そこからどの様に行動するかに、言い換えれば、その行動の型に「心」のあらわれを見てとる、言わば能動的な側面に焦点の当てられた表現でしょう。さらに、「想像力」も「心」の能動的な側面ではないでしょうか。想像力の結果が、現実になるか否かは、行動に移すか否かにかかっていますが、いずれにせよ、心の能動的な側面を示すものとして、考えられます。

ところで、心理学の研究対象は、勿論言うまでもなく「心理」の学であり、心を研究の対象としているのは明らかです。心理学と一言に言っても、専門・細分化(蛸壺化…)が進んでおり、様々な研究領域に分かれています。そのうちの一つに認知心理学という分野があります。認知心理学の形成史は、行動主義心理学の修正して採用することから成っています。行動主義心理学とは、1910年代半ばに心理学のいわば「科学化」を目指したワトソンという人が提唱した立場です(例のごとく、何も資料が手元にない状態で書いてますので、誤認があればご容赦願います)。その基本的立場は、

被験者以外には観察することの出来ない心的過程を一切考慮せず、学問の研究対象を、外部から(つまり被験者以外にも)観察可能な、刺激と反応の観察に限る、

というものです。それ以前の心理学と何が違うかといえば、それ以前の心理学は、被験者自身の心的過程・状態を、被験者によって報告すること、つまり「内観」と呼ばれる方法によって、心的内容を可能な限り「直接的」に記述しようとする試みがなされていたのに対し、ワトソンの行動主義では、心的内容は、簡単に言ってしまえば、いわば一種のブラック・ボックスであり、そこで何が起こっているかは一切問題にしない、という点に違いがあります。そこで、ともに外部からの観察が可能な、刺激と反応の関数関係のみに注目するというわけです。(ただし、行動主義の諸学派によって、そもそも「刺激」と「反応」の概念そのものに振れ幅があるということは、付け加えておかねばなりません。例えば、スキナーの場合、「刺激」の座に、「環境」との交渉関係を認めます。)

認知心理学は、その修正から成っており、行動主義と同様に、刺激と反応の観察を行うのですが、そこから一歩先に進んで、刺激と反応の関数関係から、心的過程・状態は、「直接的」には不可視のものですが、関数関係から、推論を行うことによって、心的過程・状態がどの様な働きを行っているか、いわば「間接的」にそこへと近づこうとするものです。

とここまで書いて疲れたので、続きは次回。

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遡行的に問うことと散種

これまた哲学に関する考え事。ほぼメモに近い備忘録。

『知覚の現象学』を読んでいたときの違和感を整理し、そこからやるべきことを予感。

遡行的に問うことに、メルロ=ポンティは成功しているのかどうか、という違和感。諸感覚の統合された様態から、特殊事例(脳の損傷など)を持ち出して、統合が弛緩した状態を言うことは、正しく遡行的に問うことに成功しているのかどうか、ということが常に疑問だったと表現できる。

そこで、伝統の形成は常に散逸可能性に晒されているというデリダの「散種」が、遡行的に問うことそのこと自体を撹乱させそうだ。うーむ。初期ハイデガーが「伝統とは起源の忘却」といい(中期~後期は知らん…)、デリダは起源にさらに痕跡を認めようとする。メルロ=ポンティも、偶然的なものの「制度化」について語っているので、「正統」な起源を求めているとは言えないのかもしれないが…。

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いわゆる「実存主義」について。

 ガチで哲学のお話。

 通っている語学学校には、「文化と文明講座」というプログラムがある。

 極めて概説的な講義だが、様々なジャンルについての講義が、もちろんフランス語で行われるので、フランス語の聞き取りの訓練になるし、知らないことも多いので、勉強になる。

 そこでのお話。

 「僕は、大学でメルロ=ポンティについて勉強していた。」というと、「へー!」という多少の驚きの反応を必ずと言って良いほど、頂戴する。フランス人にとっても、メルロ=ポンティは「難しい」という印象があるようだ。ディジョンのFNACにも、『知覚の現象学』と『目と精神』くらいしか置いていない。つまり、メルロ=ポンティは人気がない…ということらしい。日本語で説明するのさえ、時間を要するし、困難を覚えずにはいられないのに、フランス語では尚のこと説明するには及ばない…。

 そもそも、メルロ=ポンティが扱おうとしている事柄そのものが難しいのだ。言語化できるギリギリの経験の地平について語ろうとしている。前言語的経験とでも言おうか…。

 彼を勉強していると話すと、「メルロ=ポンティは実存主義か?」と問われることがしばしばある。これには、いつも当惑する。そもそも…、メルロ=ポンティは、「実存」という語をちゃんと定義して使っているかどうか、などと考え、「うーん」と悩む。というか、むしろ、「実存という言葉で、あなたは何を考えているの?」と問いたくなってはしまう。そもそも、「実存」という語は、サルトルの「実存は本質に先立つ」の標語以来、その文脈を離れ独り歩きしてしまっているような印象さえ受ける(いずれ、サルトル自身とも格闘することになるのだろう…)。今までに、「実存主義」の名の下に二人のフランス人による概説(そのうち一人は哲学が専門ということだ)を聞いて、尚のこと、メルロ=ポンティを「実存主義」のレッテルの下に一括りには出来ないな…という実感を強くする。

 その二人の説明とそこで自分が受けた印象を簡単に纏めると以下のようになる。「実存 Existence」と「本質 Essence」を対概念にして、人間存在を実存から理解する、というのは至極正しいと思うのだが、「本質」のカテゴリーの中に「存在 être」まで含めてしまうような説明を聞くと、「うーん?」と首を傾げてしまう。「存在は本質に分類されるカテゴリーの一部」というような印象を与えかねない説明がなされており、僕としては、それは、無条件には言えないだろうと思う。もちろん、ハイデガー以前の哲学史の説明としては、正しいとは思うし、それが実存主義が槍玉に挙げる「存在」の定義ならそれでよい。

 僕としては、メルロ=ポンティによる「実存」の定義は、ハイデガーのそれに近いと思う。ハイデガー自身の言を引けば、「現存在がそれへとこれこれしかじかの態度をとることができ、またつねになんらかの仕方で態度をとっている存在自身を、われわれは実存と名づける」(『存在と時間』第4節)。つまり、ハイデガーの定義によれば、「実存」そのものは、「存在」に対する何らかの態度を常にとっている、ということになる。その「態度」を、その構造的連関(「存在機構」)に注目しつつ分析することが、『存在と時間』のプログラムであり、そのことを彼は「実存論的分析」と名づける。

 よーするにだ、人間自身が、存在しているあり方のうちには、ある際立った一般化できそうな特徴があり、その特徴、つまり「構造」を分析してみると、「存在の理念」を暴くことが出来るだろうし、それがハイデガーの目指すところだ、と言っている。

 メルロ=ポンティの「実存論的分析」もこれに近いと思う。『知覚の現象学』では、身体のあり方に注目し、その実存の運動、身体は絶えず何らかの仕方で世界へと向かっており(「世界」を拒否するにしても、受け入れるにしても)、それは身体的実存をもってしてのみ可能になる。というのが、『知覚の現象学』の僕の1文での要約。いうなれば、「存在の理念」への鍵・秘密を、「身体」に注目して暴きましょうね、というのが、メルロ=ポンティ。

 一方、僕が、「文明講座」で聞いた、「実存」の説明は、いうなれば、ハイデガーの「被投性」の概念に近く、「世界の中に、いかなる理由なく、あること」が、「実存」だと言うような説明を聞いた。これだけでは、うーむ…ハイデガーも「実存主義」のレッテルを貼られて、「自分は実存主義」ではないと説明するのも頷ける。

 結局のところ、「存在はダメよ、実存よ」という説明図式では、あまりに舌足らずだ。「実存」の中に、全ての存在了解の鍵があるというのに、その説明抜きで、メルロ=ポンティを説明するのは厄介だということであり、したがって上記のような「実存主義」の説明図式の中に、彼を含めるのは間違いだと思う、ということだ。彼の「実存」もまた、ハイデガーと同様に、世界へと、存在へと、向かっていき、しかじかの態度をとるもので、そこに「存在の理念」があるというのだから。

 うーむ。うまく説明できんな…。要修行。そもそも、メルロ=ポンティが、実存についての明確な定義をしているのかどうか、再検討する必要があるし、サルトル含めた「実存主義」の言説を知らなければならないなぁ…、などという思いを強くする。「実存」の通俗的理解はどうあれ、サルトルの「実存」の定義そのものを知らないと話にならん…。

 上記のしかじかの理由で、公平を期すためにも、サルトルを読む動機にもなった。要は「実存主義って、なんかスローガンだけが独り歩きしてない?」ということを確認するためだ。「文明講座」は、サルトルのスローガンは、サルトル自身の思想そのものと、どれだけの距離があるのか、あるいは、距離はゼロなのか、それを知りたいという動機を与えてくれるには、十分だった。

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