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旧ディジョン日記(移転しました)

以前フランスの地方都市ディジョンでフランス語を学んでいました。

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ペタンク(Pétanque)

日曜。寮のインターネットサーバーの接続が安定せず、
思っていた時間に更新できませんでした。


今日はフランスのスポーツの話。

国際学生寮の近くには、運動場や、プール、サッカースタジアムなどが近接していて、
スポーツを楽しむには好条件が整っていたりします。

サッカースタジアムは、ディジョンの本拠地のようで、
週末になると、寮の自室にいても、そこから歓声が聞こえてきます。

天気のいい日に散歩をすると、そこかしこでスポーツをする人を見かけます。

そこで、よく見かけるのは、ペタンクというフランス発祥のスポーツ。



ペタンクはどこでも・かなり気軽に出来るスポーツです。

重さ600~800グラムくらいの金属球を、小さな標的球に出来る限り近づけて、競うゲームです。

ルールと得点の数え方は、冬のスポーツであるカーリングに近いですが、
カーリングのような、氷の表面を磨いて擦って、弾道を変えるという複雑さはないです。

簡単に言ってしまえば、金属球を投げるだけのスポーツ。

詳しくは、「日本ペタンク協会」のホーム・ページに載っています↓

http://www.znet.or.jp/petanque/index.htm



場所を選ばず、公園などで十分に出来ます。
テニスコートのような、線で区画されたコートなんてものは、ペタンクには必要ありません。

公式ルールの人数は、1対1の2人~3対3の6人まで。
大掛かりに人数を集める必要もありません。

距離10メートル、幅4メートルくらい、の空き地があれば、出来ます。

カーリングと似ていて、ターゲット(小さな標的球)に出来る限り近づけるのは一緒なのですが、
フランス的…と思ってしまったのは、
ターゲットそのものも、先行チームが投げて決める、ということです。

ここに区画されたコートが必要ない理由があります。
ルールを見ても、距離6~10メートルくらい。つまりその範囲にターゲットがあればOK。

どこから投げるかも、先行チームが決めます。
公園でよく見かけるのは、足で砂地にぐるっと円を書くという仕草。
これで投げる場所も決まります。

また、持ち球の金属球でターゲットを動かすのもOKです。



そして何よりの特徴は、男女差・年齢差が、あまりゲームに反映されないということ。

なので、日本のゲートボールみたいに高齢の愛好家もよく見ますが、
若い人・家族ぐるみなどでも遊べる競技で、実際にそういう光景をよく見かけます。

フランスでは競技人口500万とも言われ、かなり普及したスポーツのようです。
また、世界大会もあったりして、その優勝国を見ていると、
イタリア、スイス、スペイン、ベルギー…などなど。
フランスは、さすがに発祥国だけあって、強いみたいです。
女性部門の優勝回数を見ていると、タイでも盛んに行われていることが伺えます。

世界大会は2007年に、日本の諏訪で――これは「若者の部」かな…――行われたみたいですね。

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「私は痛いです」?

寮のキッチンの、自分の住んでいる5階のやつが、故障か何だか知りませんが、使えません。
話によると、3階も使えないようです。
こういったことは、初めてではなく、2度目なのですが、
日曜日の午後からずっと使えないままで放置されているようで、
さすがに少しイラっとします。
他の階に行けば、問題ないのですが、もともと一階あたりのコンロの数が少ない上に
一箇所に集中するので、順番まで待たなければならない、といったこともしばしば。
10月になれば、食事が出るので、それまでは辛抱ですが、寮暮らしの罠ですね…。


さて、タイトル。書いてみたけど、やっぱ変な日本語ですね。
今日の授業のこと。

「痛み」を表す間投詞でお国ごとに、どのように言うのかが話題となり、
日本人の僕としては困惑してしまいました。

フランス語では、aïe(アーュ), ouille(ウーュ), 英語では、ouch (アウチ)という具合に、痛みを表す間投詞があり、
フランス語で確認はしていないのですが、少なくとも英語では、この表現は、「痛み」だけに限定されない。
例えば、思わず熱いものに触れてしまった場合にも使われる。

日本語には、このような表現がないんじゃないか…と必死に日本語の語彙を探しましたが、見つけられませんでした。
「ああっ」でもいいとは思ったのですが、これは使える場面が広すぎるので、少し違うなと思いました。
(適切なものが、あったら教えてください)

そこで、授業で答えた回答としては…

形容詞の語尾が促音化するなど、ヤヤコシイことまでには言及せず、
「痛い」「いてぇ」「いたっ」等々、イの音で始まる表現を列挙するに留めました。

イの音で始まっていることが、中国人も含め(彼らもアの音で表現するようです)、
クラスの人々には意外だったようです。なんとも言えない反応を頂きました。

そこで「日本人は、痛みに歯を食いしばって耐えるから、イの音なんだよ」と言ってやりたくもなりましたが、
数代前の首相みたいなことは言うまい、と思って止めました。

つまり、「形容詞」をそのまま間投詞として転用している。
そうだとすれば、これは、英語等と比較すれば、かなり具体的な間投詞で、
熱いものに触れた場合は、
「痛い」が使えないこともないかもしれませんが、やはり自然に出るのは「熱い」でしょう。

「『痛い』というのは、形容詞で日本語ではそれをそのまま使う」なんて説明が、一瞬よぎりましたが、止めました。
というのも「痛い」というのは、ちょっと変わった「形容詞」だと思ったから。

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これは上手く説明できないのだけれど…

英語とフランス語の場合、普通、というか「私は頭 の/において 痛みを持っている」というように表現します。

I have a headache.
J'ai mal à la tête.

日本語では、「痛みがある」と言うこともできるだろうけど、このように表現すると、
言外に「軽い痛み」と言っているようにも聞こえてしまう。
自分の「痛み」に対して、客観的にその存在を言明しているようで、「耐えられる痛み」って感じがするなぁ。

そこで、上の英文・仏文に対応する自然な表現はといえば…

①「私は頭が痛いです。」
②「頭が痛いです。」

の二つだと思う。さらに、

③「痛いです。」

は、言えても、

④「私は痛いです。」

は、少なくとも「肉体的な痛み」に関しての表現としては奇異な感じがします。

というか、④は「あの子は痛い子」の意味に聞こえちゃう。
多分、この「痛い」の用法は、古語の「かたはらいたし」の「いたし」から来てて、
だから、「私」を主部に置くと奇妙な感じがするんだろうけど。
(「傍らから見ていて耐えられない」つまり、そもそも傍観者視点を言明している形容詞で、「私」とは馴染みにくい)。

それはさて置き、①~③は、主語・述語という西洋の文法概念じゃ、整理しにくいだろうなぁ…。

①は「私は」が主部で、「頭が痛い」が述部になるんだろうか…?
それに対し、②は「頭が」が主部で、「痛い」が述部…?

ドイツ語と比較するなら、
非人称・生理現象を表す、形式主語の Es が省略できるという現象に近いと言えるかもしれないけど…。

そもそも、日本語の「痛い」にしっくりくる形容詞がないな(あったら教えてください)、と思ったのに加え、
何だか釈然としないな、と思ったので、授業中に「痛いは形容詞」というのをためらいました。
多分、しっかり説明すれば、興味を抱いてくれる話題なんだろうけどね…。

誰か、日本語の文法に詳しい人教えてください。
多分、「象は鼻が長い」問題とも絡んでくると思うのですが。

--------

先の、間投詞の問題に戻って、言いよどんだ内容を整理してみるならば、

日本語の「痛い」は、間投詞として用いることが出来ることから、主観的言明が可能な形容詞と推測できる。
一方、フランス語の 「痛み」douleur の形容詞形は、douloureux なのですが、
これは、第一義には、「痛みを引き起こすような」であり、また「痛む頭」など、身体の部位に修飾することは出来ても、
そのまま「痛み」の主観的言明になっているというような用例を見たことがない…(あったら教えてください)。

なので、「痛いは形容詞」というには、それに対応するフランス語がなかったので、言いよどんだ、といったところでしょうか。



なんだか、ウィトゲンシュタインが読みたくなったな……。

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Manga 

ここ数日は夏日が続いています。ただ、夜に窓を全開にしていると、明け方少し寒かったりします。
熱帯夜というものは、こっちにはないので、快適と言えば快適。
昼の暑い時間には、クーラーがないことが残念ですが、なくてもすむんだな…というのがよく分かる。

もう大分前の話になりますが、CDとDVDを買いに行った時の話。
「FNAC」という本屋と家電が一緒になったお店で、情報機器、情報媒体を扱ったお店です。

FNACに限らず、本屋は何軒か覗いてみていますが、
専門書に特化していないような、たいていの大きな本屋では、
「漫画」のコーナーが一角を占めています。

漫画と一口に言っても、Bande dessinée と Manga(漫画)の扱いは別で、
Mangaと書かれた一角、つまり、「日本の漫画」だけを扱った一角があるということです。
手持ちの仏仏辞書「Petit Robert」にも、マンガという単語がしっかり載ってます。

ざっと見た感じでは、日本でも人気があるものは、大体訳されているみたい…。
ある日本人は、「NARUTO」を読んでないとフランス人相手に言ったところ、
「あんな面白いものをどうして読んでないのか?」と逆に勧められたそうです…。
うーむ。

手にとって値段を見てみましたが、ジャンプ・コミック一冊で7€近くもして、高いです。
立ち読みしている若い人をよく見かけます。

さらに、FNACには、日本のアニメーション・コーナーがしっかり出来ている。
ある友人は、フランス版の宮崎アニメを買っていました。
ちゃんとオリジナルの日本語音声も入って、20€くらいだそうです。
フランスで売られている普通の映画DVDに比べると、高めですが、日本に比べれば、それでもお得なのかな。

こりゃ、確かに一つの輸出産業だ…というのがよく分かる。



蛇足ですが、こっち来てから、CDやDVDのレンタルショップを見たことがない…。
レンタルや中古マンガ屋というのがビジネス・モデルとして確立してないことが伺えます(古本屋はしっかりありますが)。

CDやDVDは、日本より確実に安く、多分、レンタルするくらいなら買っちゃうよ…という感じなんだと思います。

CDは、アルバム一枚が、7~10€程度で、一枚買えてしまいます。
DVDは、10~15€程度、人気があり、新しいものほど少し高めになっているのは一緒です。

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バーゲンと男物の服のサイズ

10週終わり。

今、これを書いている時は雨です。雨が降ると、急に肌寒くなります。
日本で言うと、10月くらいの気温だろうか…。
天気のことは繰り返し書きますが、
陽気な日は、朝涼しく、昼にグンと気温が上がるって感じ。
気温差が激しいので、体調管理には注意が必要です。

生活全般には慣れてきたので、余裕も生まれてきました。

日本とやっぱり違うな…と思うのは、
お店はいつでもやっているものではないので、店の開店時間に合わせて生活リズムを調整するということ。
コンビニみたく、いつでも何か置いてある、というお店はないので、自然と生活スタイルも変わってきます。

とりわけ、フランス・パンは、フランス人の生活スタイルに一役買っているに違いない…とよくよく思わされます。
すぐに硬くなるのは日本と変わらないので(モノは全然違います)、小まめに買いに行く必要があります。
パン屋はほぼ何処にでもあるし、お店によっては日曜でも開店しているのが大きな特徴。
フランス人はあまり働かない、なんてイメージがあるしれないですが、パン屋は例外です。
また、「バカンスのために働く」というイメージも、人によっては様々で、とらない人・店もあります。
市場を歩いていると「バカンスには行かないのかい?」「行かないよ」なんて会話も聞こえてきます。

--------

7月くらいから8月にかけては、バカンスに出かける人が多いみたいで、
昨日も市場に行ったのですが、昨日はとりわけ出店している店が少なかった。

バカンスのシーズンの前には、
店によってバラつきがありますが、ディジョンでは、
6月の末から、7月いっぱい~8月初頭くらいまで、
Soldes と言って、要するにバーゲンがあります。

日本でも季節の変わり目等は、百貨店などはバーゲンを開催しますが、
フランスでは、中心街に行くと、街中がバーゲン。
「安売りをしている」、ということを示す Soldes という文字を街中で見ることが出来ます。
あるところでは「安売り中、まもなく全部消えちゃうよ」という看板が掲げてあったり。

安売りの対象になっているのは、全ての店舗を見たわけではないですが、
やはり昨年の売れ残りが対象のようです。新作は対象外。
なので、欲しいものが何でもかんでも手に入るってわけではないのが正直なところ。
対象商品は値引き率が30~70%って書いてある店もあったけど、実のところ良く分かりません。
ただ、この時期、確かに買い物客で賑わいます。

自分も、男物の服を少し買い足すために、行ってみました。

「サイズが探すのが大変」という話を聞きますが、探せばちゃんとあります。
メーカーによって表記は多少異なってくると思いますが、
自分が買った限りでは、EU内で、サイズ表記を統一しているらしく、L→M→Sで表記されていました。

男物は、Sで170cm中肉の男子が着て丁度というサイズです。

着てみた感じでは、丈が日本のよりも、2~3cmくらい長いのかな。ちょっと長く、余裕があるという印象です。
なので、身長165cm以下の人は丁度のサイズを探すのは大変かもしれませんが、
それ以上あれば、問題ないと思います。

もっとも、フランス人たちの普段着の着こなしを見ていると、袖丈が多少長くとも、気にせず着ているので、
こっちの感覚に慣れてしまえば、少しくらいサイズがあってなくても気にならなくなってきますが…。

余談ですが、夏ということもあるのかどうか分かりませんが、
スーツにワイシャツ、ネクタイという日本のサラリーマンの組み合わせは、街を歩いている限りあまり見ません。
お店によって違うのだとは思いますが、皆ラフな格好をして、仕事しているようです。
郵便局のおっさんもラフでした。

この組み合わせをしているのは、スーパーの警備員さんくらい…。
彼らの体格も手伝って、すごく目立ってます…。

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ヒロシマの日

 8月になっても、日本だと夏本番って感じなんだけど、こっちにいると全然そんな気にならない…。セミの声がないし、明け方~午前中は涼しく、2時頃から夕方にかけてが一番暑い時間。いつも長袖か半袖か迷います。

 8月6日、言うまでもなくヒロシマの日。

 フランスのラジオでも、扱いがそんなに大きいわけじゃないけど、セレモニーがあることが、ちゃんと紹介されていました。また、米大使が初参列したということも言ってました。

 ちなみに、日本でも聞ける、パリ発信のお勧めのインターネット・ラジオがあるので紹介しておきます。

 「RFI(Radio France International)-journal en français facile」
 http://www.rfi.fr/lffr/statiques/accueil_apprendre.asp
 (↑当然ながらフランス語のサイト) 

 iTuneを使っている人なら、Podcastを経由してダウンロードできます。無料です。他のソフトでダウンロードできるのかどうかは分かりません。1日10分のニュース番組です。8月6日付けのニュースでは、ヒロシマのことを紹介していました。確か、「悲しい記念日(triste aniversaire)」と紹介してたかな。

 蛇足ですが、つづり字と発音の関係上、 「はひふへほ」が発音できないフランス人は、Hiroshima を「イロシマ」と、発音し、母音に挟まれた「s」を濁音で発音するため、Nagasaki を「ナガザキ」と呼んでます…。

 インターネット・ニュースでしか見てないのだけれども、日本の外相は、ありきたりで無難なコメントしか残さないのね…。思い切って、理念を述べてもいい場面だとは思うのだが…。政治的信念を持っているのかどうか、疑わしくなってしまう、尤も先の首相のごとく、信念だけで振り回されるのも御免だけども。

 なんか投下機の機長の息子とやらが、米国じゃ騒ぎにしているらしいけど…、「真珠湾を奇襲したのは日本だ」と言いながら、「戦争は終わったことだ」と一方で言う。自国を正当化するのは当然のこととは思うが、一方で忘却とまでは言わないまでも、言外に「過ぎたことの責任を問うても仕様がない」と言っているように聞こえてしまう。米国人一般に当てはまらないことを祈るが、この米国人は、そうやって、大戦後の戦争をも正当化してしまうのだろうか…?僕個人の意見としては、当然ながら原爆投下の行為は許しがたい。とりわけ、事前通告なしに投下された事実、つまり人的被害を実験・検証するためとしか思えない行為に対して、という人道的観点に基づいて、である。人間を統計的に処理しようなどという態度は、ナチのホロコーストを実行したアイヒマンのそれと、かけ離れているわけでは決してない。件の米国人は、その事実を知った上で発言しているのだろうか?いずれにせよ、自らの厚顔無恥と無思慮を曝け出しているに過ぎないように思えるのだが。そんな66歳にはなりたくないものである。

 一方、フランスでは、マルグリット・デュラスが、「二十四時間の情事(邦題)」(原題:Hiroshima, mon amour;1959年)という映画を撮っていたりして、まだ観ていないけども、いずれ観る映画リストに加えられました。原爆について語ることは、フランス人にとってどのような意味を持つのだろう…、また保有国であるが故に、核軍縮に対してどのような意見を持っているのだろう…、随分前に見たニュースで、シラク前大統領がフランスの核実験を正当化するパフォーマンスをしていた記憶が残っているだけに、興味深い事柄です。

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台湾人のアイデンティティ

 昨日更新しようと思った内容ですが、寮の回線に障害が発生したらしく、昨日は接続すら出来ませんでした。こういうことは、こっち来てからは初めてです。夜に回線が混み合う以外は、普通に問題なく接続できます。

 昨日あったこと。スロヴァキア人と台湾人と自分とで昼食を食べてた時のことです。話題は、NATOの話、日本の「軍隊」、もちろん自衛隊ですが、の話、などなど。台湾人は自衛隊について知っていたので、よかったのですが、スロヴァキア人に説明しようすると、それをぴったり一語で説明するような言葉ががないので、ちょっと苦労しました。憲法9条のこと、紛争の解決手段としての武力は放棄すると憲法に明記されていることなどを説明しましたが、分かってもらえただろうか…。PKOのこと、イラク戦争で米軍の後方支援とか、問題がないわけじゃないということを説明できると良かったのだけれども、まだそこまでには至りません…。

 その中で中心的な話題が中国についてで、台湾人と中国に関するイメージについて話していました。

 共産党一党独裁体制、メディアの検閲、天安門事件、等々…。中国の政体に関するキナ臭いイメージは、僕と同じく共有していたようです。また、この会話を通して気づかされたのですが、台湾人は、フランス語で出身を紹介するときに決まって「台湾」と答えているということ。台湾人一般が、台湾人としてのアイデンティティを強固なものとして持っているかどうか分かりませんが、少なくとも彼は、それを持っているようです。人民共和国との利害関係で、公式には「一国家」として承認されていなかったと思いますが、アイデンティティとして、「中国とは違う、台湾は台湾だ」ということ、中国をちょっと外部からの視点を見ているのだな…ということが伺えて興味深かったです。

 しかし、さらに興味深いのは、台湾人は、立派に共通語としての「中国語」を喋ることが出来るということ。どうやら義務教育のようです。「なぜ?」と聞いてみたら、案外あっさりとした答えが返ってきました。「同じ文化を持っているからだ」とのこと。うーむ…。もう少し、彼の深層を覗いてみたい気にもなりましたが、それはまた今度の機会に。にしても、複雑な問題ですな。
 

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異文化は何処にある?

 硬めの文。自分にとっては、以下のような記事のほうが本来的であるのですが、このブログは幾つかの意図が錯綜したものになっており、必然的にこういうものが混ざってきます…。

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 今から書こうとすることには色々な切り口がありうるが、大島渚の「青春残酷物語」を観た時の感想から説き起こす。

 主人公の男女、清と真琴は、共に青春の盛りの高校生であるのだが、親元を離れ、二人で生活することを決める。自活の手段は、美人局である。それが因縁となって、二人には残酷な結末が待っているというのが、大まかに過ぎる粗筋であるが、ここではそれについての詳述は避ける。

 自分にとっては、この映画は幾つかの点で興味深い。

 まず第一に、この映画が公開されたのは1960年であり、安保闘争の只中であるという点。この場に居合わせるには遅く生まれすぎた自分としては、なかなか理解しがたいのであるが、恐らく、この当時の――革命あるいはそれに準ずるものが起こりそうだという――時代の雰囲気を捉えているのだと思う。実際にデモを行う学生たちのシーンが収められている。

 第二に、この映画の主題の一つが、恐らく「青春」にあるという点。少し脇に逸れるが、自分はこの映画を観た後に、三島由紀夫のことを考えていた。というのも、彼は「青春」に異様な固執を見せた作家だったからである。この映画を観るまでは、なぜこの時代に「青春」が、彼においても主題となりうるのかが理解できなかったのだが、観た後には、何となく取っ掛かりが見出せそうな気がした。とはいえ、三島作品を総覧しているわけではないので、何か言い得るほどのものではない。しかし、少なくとも大島が描いたものについては言い得る。大島は、「青春」というものを、肉体的には最も美しく最も充溢しており(これは三島も同様だろう)、最も何かをするには充実した時代であるにも拘らず、その力を社会に及ぼすほどには至らず、結果、無力であるという逆説を描いていると思われる。劇中に、真琴と一世代ほど離れた、彼女の姉は、彼女たちが自分とは異なる時代とその雰囲気に青春を迎えたことを、「私たちがあの頃に出来なかったことを、あの子たちならやってのけるかもしれない」と形容する(手元に映像がないので引用は不正確)。もちろん、それは主人公たちにも出来ないことであったことが映画の最後になって明かされる。1970年前後の学生運動の行く末まで射程に入れると、もちろん運動を「青春」の一言で済ませるわけには行かないだろうが、少なくとも一面を捉えていると思われ、したがって、この映画は予言めいて見える。

 最後に、自分にとって何より興味深かったことは、劇中で世代間の隔絶について語るシーンがあることである。前述の通り、真琴と姉の間には、一世代の格差があるのだが、姉がさらにその父親との隔絶について語るシーンがあるのである。戦後の秩序を形成してきた世代、それに刃向かおうとして失敗した世代、これから「青春」を武器に刃向かおうとする世代。三つの世代の間の二つの隔絶が語られるのに加え、さらに、この映画を観ている私自身と映画そのものとの間に隔絶があり、都合三つの隔絶があることが興味深かった。

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 世代間の隔絶は何を以ってしても埋められるものではない。別に、大島の映画に依拠せずとも、この手のものを例示する手段は幾らでもある。戦争を何らかの形で経験した者と、そうでないものが、共に戦争それ自体に反対するとしても、やはりそれを主張する強度には差があるように思えて仕方ないし、全共闘時代を通り抜けてきた世代とそうでない世代でも何かが違う。各人が、それぞれの経験の厚みを持つ以上、常にある種の理解し難さが残る。

 完全な理解へと回収することは、不可能であっても、言語によってそれなりに近づくことは出来る。接近の手段は、言語だけとは限らないが、やはりそれが最も重要だと思われる。

 もし、「異文化」を、自分の持つ文化的・時代的背景だけでは処理しきれない「理解しがたさ」と定義できるのならば、世代間の隔絶も一種の「異文化」と言い得るのではないだろうか?

 さらに言いすぎかもしれないが、この種の理解を深めることは、異なる形容詞が冠される「文化」への理解も深めることにつながるのではないだろうか。それがなければ、接触は皮相なもので終わっていくような気がしてならない。もちろん、これは自分に対する戒めでもある。

 さるドイツ人が、基本動詞 Sein (英語で言えば、be 動詞にあたる)の親称二人称複数形のつづり字を忘れていた、ということに衝撃を覚え、ドイツ文化の行く末を勝手ながら憂えたこと、また「異文化は自文化にある」のではないか、と言いたくなったことを思い出し、記す。

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