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旧ディジョン日記(移転しました)

以前フランスの地方都市ディジョンでフランス語を学んでいました。

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冬の訪れ

別にネタを用意していたのですが、
ディジョンに雨でも槍でも氷柱でもなく、
が降ってしまったので、そっちをネタにしようと思います。

先週から、一気に冷え込みが酷く、
最高気温、最低気温ともに氷点前後、つまり0度前後です。

木曜日の夜には雪が降り始め、
昨日、土曜日の午後から雪が本降りとなり、夜には軽く積もっています。

今のところ、積雪は数センチといった感じですが、
やはり雪の降らない国からやってきた人たちには、初めての体験ということもあり、
夜遅くに雪合戦をして騒いでいる、という迷惑な奴ら元気な人たちもいました。

日本の雪国出身の自分としては、雪は珍しくも何ともないし、
積雪が30cmを超えた時の、歩くのもウンザリ、といった記憶があるので、
これ以上は積もらないでくれ…といった思いのほうが強いです。

とはいえ、
朝、パン屋に行くついでに、雪景色を写真に収めてきました。
こんな機会でもない限り、僕が住んでいる界隈の写真を撮るなんてしないので。
早速、雪だるまを作ろうとしている親子もいました。

まずは、部屋を出る前に、自室から寮の様子を2枚。
Neige 1
Neige 2

僕が足繁く通うパン屋の前の道路の様子です。
Neige 3
実は、ディジョン、路面電車路線の建設工事中で、
撮影した道路は、主要な道路の1つなのですが、こんな風になってしまってます。
片側2車線あった道路は、非常に狭くなり、片側1車線になり、
しかも頻繁に交通止めの区間が変わっているようで、少し不便です。
工事に雪の影響がなければ良いですが、ありそうですね…


パン屋の帰りには、ペタンク場に寄り道。
Neige 4 Peacute;tanque
さすがに誰もいません。
手前にある小屋は、夏場や秋、天気のいい日の土日には、午前~正午にかけて、
オッサンたちが「食前酒」とでも訳せばいいのでしょうか、
政治談議等をしながら、一杯ひっかけて帰る、ということが多かった場所です。
夜は、(高校生くらいの)若者たちの待ち合わせの場所になっています。

実際はこの中でペタンクをしていましたが…
Neige 5
これじゃあ、ちょっと無理ですね。

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注意!!:自転車編

たまには、少し有益な情報を書こうと思います。

夜の訪れが早くなり、5時には真っ暗です。
学校帰りには、真っ暗という状況が多くなってきたので、
自転車の視認性をよくするために、ライトを備え付けました。

とりわけ、車が自転車に気づかないという場合が多く、
(しかも、こっちの自動車はウィンカーを出さない人が多いので、舗道を走っている時でさえも注意が必要)
また、自転車は新参者で、自転車専用道路が部分部分ではあるものの、十分とはとても言い難いです。

このため、道路を走らなければならないので、尾灯は特に重要です。


さて、
自転車の話もう一件。
自転車の盗難の話。

僕が知る限りで、3件の盗難がありました。

もう1件、この3人とは知らない人が盗難されたみたいで、寮の駐輪場に貼り紙がしてありました。
「私の自転車返してください…」と。

話を総合して、盗まれた3人の共通点を挙げておくと、

・長期間放置した
・鍵が壊しやすいものだった
・屋外に放置した
・比較的良い自転車だった(追記を参照)

となりますかね。

一人は、長期休暇中に寮の駐輪場に止めていたにも拘らず、盗難にあった。
(それ以来、寮の駐輪場の防犯体勢は強化されています)
もう一人は、旅行から帰ってみると、鍵が壊されてなくなっていた。
さらに一人は、金曜日に学校に置き、バスで行く用事があったので、
自転車を放置して、月曜日に取りに行ったら、盗まれていた。

盗難に遭わないためには、

・夜間、人目につかない時間には絶対に屋外に放置しない(何が何でも持って帰る)
・長期で不在の場合は、自転車を自室に入れる
・鍵は2個つけましょう(最低1個は可能な限り壊しにくいものを選ぶこと)
・付属品(ライト等)も盗まれるので、必ず外して管理する(これはたとえ安っぽいやつでも盗まれるみたいです)


追記

4人目の犠牲者が出ました。実は4人中、3人が日本人…。お国柄出てますよね。
その人の自転車は、前3件と比べると、高価なものではなかったのですが…容赦ないよなぁ。
その人も、大学構内に一定期間放置していたようです。

ちなみに、フランスは、日本のように防犯登録制度はありません。自己管理です。

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ペタンクの投げ方:ポワンテ編

ペタンクの話。

今月から、カンボジア出身の夫妻がやってくるようになりました。
話によれば、25年間フランスに住んでいるということ。
25年前というと、カンボジアは内戦・混乱期にあたるので、恐らく政治的難民なのでしょう。
確認はしていません。これもフランスの一面です。

さて、話はさらに遡って、10月の話。
ある日、「チャンピオン」と呼ばれる人に、ペタンクの投げ方を色々と習いました。

その人に習ったことをまとめてみることにします。


その人によれば、練習する時に大事なことは、
球を投げる時には、変な力は要らない。力を抜いて、真っ直ぐ腕を振ることが大切。
(大体、球が手を離れる位置は、肩くらいの高さ)。
投げる前には、常に目標の落下地点を定めて、
そのあとの転がり方をイメージすることはとても大事。
常に、球の落下地点と、転がり方を見て、投げ方を修正する。


ということでした。

球を目的球に近づける(「ポワンテ」と呼びます)という場合に、
どの程度高く球を投げるかによって、そのあと転がっていく距離は変わっていきます。
一般に高く投げれば、投げるほど、転がっていく距離は短くなります。

1.転がす
100.png
この場合には、大体、目標球までの距離の2分の1の所に球を落とす。
本当に転がそうとすると、目標球を超えて行ってしまうので、
落下地点に低い軌道で置きに行くといった感じです。
この投げ方で実際に練習してみると、落下地点の重要性がよく分かります。
というのも、
落下地点が5cmずれていると、球が止まるまでには倍の10cmのズレになっていたりするからです。

2.置きに行く
101.png
大体、4分の3の距離にフワッと球を置きに行くといった感じです。
この時、十分に球の軌道が高くないと、余計に転がっていくので注意が必要です。

3.上級テクニック
102.png
これは難しいです。
Plomber と言って、訳すなら「鉛直落下」と呼ばれるテクニックです。
その名前の通り球を高く投げて、なおかつバックスピンをかけて、目的球の近くにピタッと止めるテクニック。
投げ方が安定していないと、危険な投げ方です…。
砂利などが多く地面が柔らかい場合、球の転がりかたが不規則で読みきれないというときに有効なテクニックです。

あと、球にカーブをかける方法も習ったのですが、これはまだモノに出来てはいません。

実際に大切なことは、投げる前に落としたい場所を決めて、そこから目的球までの距離を計り、投げ方と転がり方を常にイメージすることですかね。

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連考2

ネタ切れで、ディジョン生活とは関係なく、自分の考え事を再開。

考え事といっても、まとまらないボンヤリとした考えから書き始めているので、「1」も書き直しが要るなぁなんて思いながら、放置してました。

思い切った問いを発することから再開します。「心は存在するか?」よく考えてみてください。

これは人によって、様々な回答を得られるでしょう。

あり得る一つの回答は、「心は脳の機能に依存している、よって心は脳の存在と同一視できる」というものでしょう。これは肯定・否定、両方の論拠にも、なると思う。肯定派ならば、「脳が存在するという意味で、心は存在する」となるかもしれないし、否定するならば、「心は脳の機能に還元しうる、よって心なんて曖昧な語彙は脳機能が完全に解明されれば、全て脳という言葉に置き換えられるだろう。よって心は消去しうる」、といった具合に。

脳という身体の一部に依存しない場合で、否定か肯定か選び、その論拠を示せ、といわれた場合は、結構難しいと思います。これは、ある種の「存在の意味」に関わってくると思います。どういうことかというと、「存在する」という事態をどの意味に用いるかということにかかってくる。例えば、「実際に、見たり、聞いたり、触れたりと知覚出来るもののみが、存在するということの意味であり、心は知覚できないので存在しない」というようになるかもしれない。あるいはまた、「言葉の上で心という言葉は存在していると言える。よってその実体はどうあれ、少なくとも、心は語彙として存在している」というようになるかもしれない。

行動主義心理学を見た場合、心(場合によっては脳)の機能的連関にのみ着目し、心的過程のプロセスは、いわば「ブラック・ボックス」であり、そこで何が起こっているかかは、直接には不可視のものである、というものでした(「1」より)。つまり、観察者の視点からは、被験者当人の「心」に起こっていることは、見ることも、触れることも出来ない、という一種の存在論に基づいているといえると思います。酷く乱暴に言い換えるならば、この心理学は、「心を扱う」学という名を冠しているにも関わらず、「心そのものは存在しても、しなくても構わない」という存在論に立脚していると思います。

と考えて、続きを考える必要に迫られたので、また今度。

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豊かさの尺度

タイトルは半分釣りです。引っかかったら、ごめんなさい。

ある先輩のミクシィの日記に触発されて考えたこと。

ちょっと難しい内容。


ある語学学校の先生が(どうでもいいが、この先生、すごく日本語が堪能でビックリした)、活用語尾の発音に関して言及していた時のこと。

「公式」のフランス語には、ai の綴りに対して é と è という2通りの音声があり、両者は区別される…、という説明を聞いていたとき、「公式には」という限定が付いていることで腑に落ちたことがあった。

つまり、「公式」と「実際」は違うということだ。

勿論、公式どおりに発音されることもある。
しかし、例えば、

・J'aimerais (条件法)
・J'aimerai (未来形)

のような場合、必ずしも、その区別は明らかではないということらしい。

(蛇足だが、日本人にとっては、仮定の話も未来の話も、「~だろう」という一語で済ますことが出来るので、未来形と条件法が、同じ語幹から作られる事には、親しみを覚える。)

さらに、自分自身の経験を振り返ってみると、結構いい加減な発音していても通じるときと、通じないときがある。

通じるときはさておき、通じない例を挙げておくと、

例えば、実際にやらかした間違いは、

・élection 「選挙」と言おうとした時に、 érection と聞こえてしまったこと。
 後者は生理学用語で、「勃起」…orz。

これは日本人に限らず、難しい区別だと思うが、

・cours と coeur
 前者は「講義」、後者は「心臓」を意味する。

RとLに関しては、結構な頻度でごっちゃにして発音しているのだと思うが、それでも、その間違いを指摘されないことも多い。



通じないときと、通じるときがあるという事実は何を意味しているのか…。

「公式」の発音と、「実際」の音価の弁別体系の範囲のズレだと思われる。

別の例を用いて、分かりやすく言えば、
日本語には、公式にはアクセントがあり、それに従ってある種の職業の人たちは訓練を積むのだと思うが、日常生活では、個々の語に関して、そのアクセントを気にすることはない。しかし完全に無視できるか、と言えるかというと、そうでもない。例えば、「牡蠣」と「柿」、「雨」と「飴」など、近接した音価を持つ語がある場合には、アクセントが問題になる。

これと同様に、近接した音価を持つ場合には、やはりきちんと発音の区別が出来ないと、フランス人には「?」という顔をされる。

例えば、あるスロヴァキア人は、particulier を 「パルティきゅリエ」と発音できずに、「パルティくリエ」と発音している。この語に関する限りは問題ないのだが、問題は次の2語。

・la roue:「ルゥー」と発音し、「車輪」を意味する。
・la rue:「リュー」と発音し、「通り」を意味する。

日本人は、似た音にユの音があるので(「公式」には、日本語のユより、緊張の強い音)、区別して発音しやすいが、難しいようだ。

--------

さて、本題。で、ここからが難しいと思う。

以上のことから観察されるように、公式には、厳密に区別される発音も、実際上には、ある程度の許容範囲をもつもの戸考えられる。

そこで、日本語の母音とフランス語の母音を比較してみると、フランス語のほうが、単純に母音に分類される音価が多いので、母音だけを見れば、フランス語のほうが、母音が「豊か」と言えるかもしれない。

しかし、日本語の「公式」の母音の、数の上の少なさは、裏を返せば、ある一音に相当する許容範囲の広さを可能にすると思われる。つまり、「お」や「う」などの母音をどの様に発音しようが、「お」や「う」を分ける弁別閾の許容範囲内に収まっていれば、識別が可能なのだと思われる。言い換えれば、実際の日本人がどの様に発音しているかには、様々な異なる可能性があるのに対し、それを「公式」の少ない分類に回収してしまえるというのは、個別の音価の弁別閾の広さを意味するのではないか、と考えられる。

こうやって考えてみると、「日本語は母音が、フランス語(や英語)に比べて貧弱か」と問われれば、条件つきでしか「貧弱」としか答えられないだろう。つまり、「公式」には5つしかないので貧弱、と。

実際、前々から思っていたことだが、例えば、日本語にも鼻母音がないかと言えば、僕個人としては、「ある」と思う。「そんなことないよ」を日本語の自然なリズムで話せば、「ん」は完全に口を閉じた状態では発音されないだろう。つまり「そん」で一つの音で、半ば鼻母音化しているのではないか、とずっと思っていた。

これが正しいならば、日本語の母音の体系は、単純には貧弱と言えなくなってくるのではないか。もっとも、様々に異なりうる音素も、記号的な価値(=音価の弁別閾)を持っているか、と言えば、持っていないと言う他はなく、また「公式」の分類は、日本語の場合、ほぼ記号的な価値と対応していると言えるのかもしれないが。

などと考えながら、ソシュール関係の本を日本から持ってこなかったことを少し後悔してしまった。

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「本物(の食文化)」という幻

 先日、ある友人に誘われて、ディジョンに新しくできた寿司屋(こっちでは、「スシ・バー」と呼ぶことが多い)に行ってきた。そこで思ったことを中心に書く。

 フランスでは、珍しくないらしいのだが、「日本食」と看板に掲げておいて、実際に握っているのは、非日本人ということが多いらしい(勿論、その中には、日本人の職人が握っているという店もある)。実際、ディジョンの「あそこと、ここは日本人じゃない…」と耳にする店もある。そこで出来てくるものは――質は様々に異なるのは勿論だが――、「日本食」とは呼びがたいものが出てくるとも聞く。

 僕自身は、フランスに来てわざわざ日本食を食べる必要はあるまいと思っている。日本食レストランの看板を見ては、どんなメニュー・寿司ネタを扱っているのか気に留めてみるものも、あまり入ってみようとは思わない。なので、今回の寿司屋は例外だ。

 さて、件の寿司屋について。まず、前情報として日本で修行してきた中国人シェフの店と聞いていて、「まぁそれなりに期待していいのかな」くらいの気持ちで行ってきた。全体の感想としては悪くはない…、ただ詰めれば、僕のような若造にさえ言えるような粗はある。これは仕方ないのかなとも思うが敢えてその粗を挙げてみる。と同時にこれは僕の寿司論。もっとも最後にこの寿司論を、タイトル通りに、ひっくり返すことになるが…。

1.ネタが乏しい
 海岸沿いの町に行けば、豊富な種類をそろえることは出来るのだろう。ただし、もしそうだとしても、それがフランス人に受け入れられるかどうかは別問題だ。ディジョンにいても、魚介類と言えば、サーモン、鰯、白身魚、マグロ類、海老、牡蠣…などなど、結構なものが手に入る。しかし、生で食べるとなると種類は限られてくるし、さらに言えば、やはりこちらの食文化に合わせた変更がなされているのが伺える。サーモン、マグロ類辺りはあまり抵抗なく受け容れられるようだ。というかむしろ、それらがメニューの主役だ。「ニギリ」という名の下に、少しのマグロ類と大量のサーモンばっかり出てくると、さすがに少し寂しいものがある。勿論、努力も伺えたので好感は持てた。しめ鯖をメニューとして出していて、これにはビックリしたので、思わず頼んでしまった。しめ具合もほどよく、美味しかった。まさか、フランスでしめ鯖が食べられるとはね…。

 少し脇に逸れるが、日本ではサーモンと言えば、寿司の脇役。主役にならないのには訳がある。これは輸送網と保存技術が発達してから、日本に取り入れられた寿司ネタだろう。というのも、日本近海で獲れる鮭には、寄生虫の危険性があるからだ。勿論、加熱して食べる分には問題ない。なので、日本では、「サーモン」という寿司ネタはあっても、「鮭」という寿司ネタはない。日本の脇役がフランスでは主役になっているのには、やはりこちらで獲れるもの、こちらの食生活事情への適合があるのだろう。

2.シャリ
 僕は、実際には、ネタよりもこれを重視する。ネタはその店の価格帯・店の立地によっては、どうにもならない要素でもあるが、シャリは職人の力量と工夫次第では、大いに変わる要素だと思う。大事なのは、シャリとネタのバランス。シャリはネタの邪魔になってはいけない。シャリとネタが調和しているのが理想の状態だろう。

 温度:シャリはネタを冷やしてはいけないし、温めてもいけない。シャリの温度管理は重要だ。口に入ったときの食感、つまり「人肌」の温度がやはり理想なのだろう。僕は日本にいたときから、「500円マックに出すなら、もう100円出して120円の回転寿司を5皿食べる」という奇態の持ち主で、よく(勿論、日本の)回転寿司に行くのが好きなのだが、最悪なケースに出会ったことがある。ネタは半分凍ったまま、シャリは温度が高すぎ。口に入れたときに熱いのか、冷たいのか分からない不快な食感で、一言で言って食えたものじゃないと思い、2皿で勘定を払って店を出たことがある。件の店は温度に関しては、ちょっと冷めすぎかな、と思わないでもなかったが、気になるほどではなかった。

 米の質と握り具合:やはり、粘り気の強い日本の米は高価だろうし、入手するのが難しいのか、シャリが全体的に少し水っぽく、また握り具合も強かった。ニギリの形としては、かなり大振りだが、きちんとした形に整えられていて、丁寧な仕事ぶりが伝わってきて、とても好感が持てたのだが、口に入れたときにオニギリのような食感がしてしまった…残念。これは、米の違いから生じた結果なのかもしれない。

 酢の分量:水っぽいのは、これが原因なのかもしれないとも思ったが、少し大目な気がした。もっとも、味の強いネタ、マグロ、サーモン、しめ鯖しか食べてないので何とも言いがたい。しかし、これで白身のニギリはちょっと白身のはかなさを損ないはしまいかと思った。もっとも白身はメニューの隅っこのにあっただけなのでこれでよいのかもしれない。

 さて、こんな細かいことを考えながら、一方で、これらをよくよく考えてみると、自分の考えたことは全てくだらないもののように思えた。全て、「フランスで」という条件を考えなければならないのだ。

 上記の粗は、あくまで一日本人から見えた粗である。僕にとっての寿司の理想と、フランスで出されるものの齟齬がもたらしたものである。ハムの一件――前々回の記事――から強く感じていることなのだが、日本の「ロース・ハム」は、フランス人から見れば、「ハム」ではないと見られるのだろう。寿司に関しては、それと同じことが言えるだろう。日本人から見れば、本当の寿司ではない、と思われるものでも、それがその食文化の事情に合わせた結果であれば、「寿司」として通用しうる。つまり、「寿司」の本質を捉え、それを与えられた条件で可能な限り、実現しようと努力する限り、それは「寿司」なんじゃないかと思えたのだ。勿論、努力しないのは論外だし、「本質」とは何かと問われると、なかなか難しい問題である。僕にとっての本質とはネタとシャリの調和であり、つまり食感の一言に集約されると思う。「ロース・ハム」も、日本の食文化の事情に合わせようとしつつ、外国人が彼なりのハムの本質の実現に努めた結果なのだろう。件の寿司屋の店員から、僕ら日本人に意見を求められたが、僕は日本人としての意見を持ってはいたが、口に出すことはしなかった。フランス人相手の商売なのだということ、無い物ねだりをしてもどうしようもないし、何よりフランス人の舌を喜ばせることが第一なのだ。ここに、僕の理想としての「寿司」を意見しても仕方がない。

 しかし、そうなってくると、本物の「寿司」や、本物の「ハム」とは、一体どこにあるのだろう?と思わずにはおれなかった。

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銀行その4

昨日、学生証とパスポートを銀行にもって行きました。

これで、口座開設に必要な一式、銀行にもう一度持って行ったことになります…。

詳しく何が問題だったのか分かりませんが、

これまで送られてきた書類は「全て破棄」と言われました。

すなわち、一から口座開設を「やり直す」ということでした。

はぁああああ。

さすがに、これだけの遅延、謝罪なしには済まされないようで、

40€、銀行からプレゼントと言われました。

うーむ…損してるのか得してるのか。

多分、原因は、新学期シーズンだったので、銀行口座開設する大学生が大量に押しかけて、

忙しい時期に申し込みしたことなんだろうかと。

しかし、幾らなんでも手間取りすぎだぜ…。



9月末の時点で、「すぐに口座開設のメールを受け取る」と聞いていました。

実際にメールを受け取ったのは、今朝。1ヶ月以上経ってからでした。

11月5日金曜日に、

銀行員の作成した僕の個人情報のチェックしたところ、メール・アドレスが違っていました…。

人をバカにするのも…(以下略)と思い、少し呆れました。

9月に、一番最初に書いた書類に、きちんとメール・アドレス書いたぞ…、それ無くしてるだろ…、

書類の管理とか、個人情報の入力とか、基本的なことも出来ないなんて、おかしいだろ…。

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