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旧ディジョン日記(移転しました)

以前フランスの地方都市ディジョンでフランス語を学んでいました。

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台風が去って

 連日更新。

 昨日の記事は、纏まりがなく迷走したものになりました…。それとは打って変わった話。本当は昨日・一昨日あたりに書いた方が良かったとも思うのですが、時宜を逸しましたね。以下に書くのは台風が列島を通過している最中のこと。

 我が福井県は、全くと言っていいほど被害はなく、体感では多少風は強い気もするけど、暴風域にすらかかっていない、という程度でした。通過中にも、ふつうに外に出歩けたので、当事者では全くありません。しかしながら、学校などは休校措置をとるなど、万全を期したようです。

 「最強」だとかいう文字が躍り出て、注意を喚起するような報道がなされていましたね。とにかく外出は控えろ、と。NHKなんかは、ずっと見ていたわけではないのですが、終日台風報道に占拠されているかのような印象でした。また、実際に避難者も出ているとのこと。どういう地域の方が、どのような危険のために避難されているのかまでは分かりませんでしたが、多分想像するに、土砂災害の危険がある地域なのかな、と思います。

 こうした中、メディアを見ていてふと思ったことです。

 台風と言えば、日本にあっては年中行事ですが、僕にとってはこの台風というものがほぼ1年ぶりなわけです。丁度、昨年の6月に日本を出国した訳ですから、台風シーズン本番の秋は完全に日本に居なかったことになります。1年フランスに居て、フランス国内の災害報道というものは、改めて思い出してみると、聞いたことがなかった(僕が聞き逃していただけかもしれませんが)。自分にとっては、今回の報道を聞いてみて、新鮮な感じもしました。ほぼ1年、そういうことは忘れていたわけですから。飛行機や電車で移動しなければならないといった人たちは、当面の心配こそすれども、慌てふためく様子なども全くなく、また避難している人たちも至って冷静な印象でした。改めてこうしたことを見ていると、こういう自然災害というのは、日本では日常の住み慣れた光景の一部なのだな、などと思ってしまいます(3・11は、勿論その規模から被災された方々に今なお続く「非日常」を押し付けてはいますが)。

 翻って、「最強」とまで形容された台風というものは、海外から日本にやってきた方にとってはどう映ったのでしょうかね。日本人にとっての年中行事とは恐らく意味合いが違うのではないか、と思うのですがどうでしょうか?

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アイドルという言葉について

 6月頭、約1年ぶりに帰ってきてみて、やっぱり浦島太郎でした。何より大きかったのは、勿論3月11日の地震以後の日本社会の変化と、現政権の混迷ぶりです。しかし、ここでは別の話題です。僕が帰ってきたのは、某「国民的」アイドルの「総選挙」で沸き立つ前後の頃です。一年前に比して、この「総選挙」のメディアの取り上げ方が異様に大きくなっているような気がして、やはり浦島感覚がここでも再燃しました。「こんなに大きくなっていたのか」と。このグループに対して特別な感情は何も抱いていないのですが、外面的な感心はしてしまいます。つまり、そのシステムがよくできてるよなぁ、という感心。「民主主義」的なシステムではございませんか。とはいえ、この選挙は金権政治ではないかと疑ってしまいます。もっとも、金を持ち権力を行使する主体は逆転し、投票者側にありますし、これが狙いなのは言うまでもないんでしょう。

 ここでは、このグループのことは脇に置いといて、「アイドル」って言葉から色々考えられるよなぁ、ということを書きます。

 「アイドル」という単語は、恐らく、日本語は英語からの借用でしょうが、フランス語にもこの語は英語とほぼ同義です。ここは、フランス語で引いておきます。Petit Robert の仏仏辞典によりますと、

Idole

1. Représentation d'une divinité (image, statue), que l'on adore comme si elle était la divinité elle-même.
 神性の代理・表象(画像・彫像)。それはあたかも神性そのものであるかのように愛される。
2. (17ème) Personne ou chose qui est l'objet d'une sorte d'adoration.
 (17世紀)一種の崇拝・熱愛の対象である、人あるいは物
-- Vedette de la chanson ou du spectacle, adulée du public.
 (そこから転じて)人々にもてはやされた歌や見世物のスター

 1は、言うまでもなく「偶像」と訳されます。2は今日的に日本語で「アイドル」と言われる場合の意味です。意味の発生の順序としては1が原義で2がどちらかといえば転義。日本語で「アイドル」と言えば、普通2の意味での用法が主で、1へのコノテーション、つまり宗教的に「偶像」と言われる意味の含みあいは殆どないように思いますが(云々の「アイドル」を神と崇めるなら話は別ですが…)。

 ところで、この représentation という語は、フランス語としてはよく使われるのですが、日本語にしてみると厄介な一語です。よく「表象」と訳されたりするんですが、要するに「実物そのものではないが、その実物を指し示す何か」ということです。こうした意味の場合は、「記号」と訳されることもあります。動詞である représenter から派生した語で、同じ動詞からの別の名詞には、 représentant というものがあります。こちらは、国や団体などの「代理人」を意味します。代理人その人が集団全体そのものと同一ではないのですが、それを代表している、ということを指し示す一語です。まぁ、日本の実情と照らし合わせてみたら、某首相は日本そのものではありませんが、日本の―残念なことに― représentant であるということになります。

 神聖な偶像を考えてみれば、それそのものが神と同一ではないけれども、神の何がしか(恩寵とか)を表している。偶像とはそういうもの。キリスト教の偶像の扱いはどうなっているのか、僕はよく知らないのですが、信仰の対象として、神ではなく、偶像を崇めてしまうというのは、間違った行いである、というのは一般的な認識だったそうです。

 ちょっと哲学畑の話になってしまうのですが、こうやって書いているのは、ふーん、と思ったことがあるんです。この言葉は idée (アイデア・理念)と語源を同じくしている。つまり、ギリシャ語のエイドス(姿・形相)、イデイン(見る)あたりから来ているという訳なんですね。まぁだからと言って何か気の利いたことが言えるわけではないのですが。

 翻って、日本の「アイドル」。勿論2の意味ですよ。これは、勿論「神性」の「代理・表象」ではないのでしょうが、しかし、1の意味合いを何かしら含んでいるのかなぁ?、なんて常々考えてしまいます。ありきたりな答えなんでしょうが、時代時代によってアイドルのあり方も変わってくるので、最低限「アイドルは世相、消費者の欲望、社会、などを反映している」とまでは言ってもよさそう。しかし、こんなの漠然としすぎていて答えではないよなぁ。

 ところで、アイドルが何を表象しているかではなくて、表象に付加されているイメージだったら僕にも考えられそうです。一例を言うなら、一昔のアイドルであれば、異性との恋愛(を公表すること)がタブーだった、と聞きます。詳しくは知りませんが、女性のアイドルであれば「処女性」とでも言い換えられそう。勿論、アイドルといえば「万人のものであるべき」という性格から当然と言えば当然なんでしょう。そうなると、一方では実生活(性生活)の生々しさからは徹底的に遠ざけられている(べきである)。別の表現をすると、人々を征服すべき存在が、誰かに征服されていてはいけない。

 また脱線ですが、処女性といえば、歴史上最も有名な処女性を付与された「アイドル」がいますね。もちろん聖母のことです。これも、キリスト教の教義形成の中で、いったいどういう事情で、どういう要請があってこんなイメージを付与されたのか、詳しい方があれば、ぜひ教えていただきたいものです。

 うーん、しかしなぁ、冒頭で話題にした件の「アイドル」。アイドルはアイドルである限り、実生活の生々しさからは遠ざけられて成立する何らかの像であり、そこには人が求めるものとの距離があってしかるべきだとは思うんだけど(つまり結局は、偶像と実像の差)、この距離を「会いに行ける」という謳い文句であたかも無いかのように錯覚させてはいないかなぁ、なんて思ってしまうのは僕だけでしょうか。もし、距離をゼロにすることによって偶像に実像を求めるならば、そりゃゴッシプ紙をめくって有名人にも実生活があるということを確認するのと、果たしていかなる違いがあるんだろう?なんて思ったり。

 決して真面目じゃない話題をクソ真面目に書くのは疲れますね…。いつも以上に纏まりのない断片的な記事ですが、これでアップしてみます。

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更新サボり明け

 長らく更新をさぼっていました。この間、ブログに何を書けばいいのやら…なんて悩んだり(悩んだフリ)もしてみました。思い出を書けば良いじゃないか、とのコメントも頂きました。思い出にするには時間も経っていないような気もするし、思い出にしたくない、というのもある。それに加えて、恐らく、フランスにいたときよりも、自分のパソコンを開く時間が減っているのも一因であるような気もします。メールやら日本の情報やらその他何やらを今よりも、まめにチェックしていたので、その必要がなくなったのは大きかったですね。また、フランスに居ないというのも、やはり大きいですね。書くモチベーションを失いがちになっている。しかし、やはり続けたいかな、と思っているし、考えていることも吐き出したいと思っているので、再開する、と宣言します。フリだけにならないようには努力してみます。

 ところで、6月半ばの記事に、福井県に居ると書きましたが、先週は東京に居ました。東京に来ると、やっぱり色々思わされることもあります。主には地震の余波ですが…。想像とは異なり、東京では案外ふつうの生活が送れているようですね。ホット・スポットで線量を気にする都民(団体)とか、呪詛のように繰り返される節電という合言葉だけが僕の頭の中で一人歩きはしていましたが、どうやら至って平素の生活は送れていると、僕が会った人たちからは感じ取れました。勿論、「平素」では終わらせられない部分は多々あるのだろうとは思いますが。

 しかし、これだけ世の中、節電・節電と声高に叫ばれているのに、奇妙だなぁ…と思わずには居れないのは、スーツ姿のサラリーマンでした。このクソ暑い中場合によっては、わざわざ長袖のシャツを着て、袖を捲ってる始末。ケッタイな恰好は相変わらずなのだなぁとは思います。未だに西洋コンプレックスか、それとも、ブルジョワ願望何だか知りませんが、とりあえずコレを社会人の制服とするのには、反対してみます。

 こういうのは、日本の風土に適合するモノをオフィス用の仕事服として追求することを怠った歴史的な怠慢の結果だと思わずには居れません。

 なぜこんなケッタイなモノを着るのか?みんなが着ているから?勿論、職種によっては、文字通りの制服なるものがあり、それを着ることが重要な意味を持つ場合もありますし、その場合に制服を着ることを否定することはしませんが(例:警察官)、スーツは厳密な意味では制服ではない。もし、みんなが着ているからというただそれだけの理由で着ているのだとすれば、フランス語にはこういった事態を指す言葉があります。

  Conformisme 「コンフォルミスム・順応主義」

 また、そうした主義の持ち主を、Conformiste と呼びます。

 僕は、このケッタイな服は、根拠なき Conformisme の産物じゃないのか?なんて思ってるんですが、どうなんでしょ。
 
 んじゃ、クール・ビズには賛成?と聞かれれば、「うーん…ちょっと待ってくれ」と答えようかなと思っています。なぜなら、よくテレビなどで見る吊り服屋の広告の「クール・ビズ」なるものには、「スーツ」という準拠枠は保持されたままだからです。

 そうだ、先日中央線で下駄を履いている人みて、ハッとしたのですが、夏の日に焼けたコンクリートの上を歩くのには、下駄ほど合理的なモノはないなぁ、と思ったことを付け加えておきます。下駄の歯の高さの分、熱くなった地表から少し離れている上に、接触面積も少ないわけです。熱も伝わりにくそうだし。これはいかにも涼しげな履物に僕の目には映りました。

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