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旧ディジョン日記(移転しました)

以前フランスの地方都市ディジョンでフランス語を学んでいました。

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ミニスカートにはご注意を!

 まぁ、くだんない話なんですけど、タイトル通りに。ふっと思い出したことがありますのでご紹介しておきます。

 これについて言葉を交わしたフランス人は男が2人くらいだったかなぁ、(とりわけ日本の若い)女性の「ミニスカート」の話になったわけです。大体、野郎がこういう話題に首突っ込むと碌でもない方向に行くのはお決まりですね、はい。まぁ性(さが)だと思って諦めてますが。

 それはともかく、事を大げさに言うフランス人の事だったので、衝撃的でありながらも、「話半分だな」と思い、あんまり気に留めてなかったんですが、ひょんなことから思い出しました。その思い出した話とは…

「あんまり短いスカートを穿いていると、売春婦に思われるよ」とフランス人から言われたことがあります。誓って言いますが僕は男なので、僕に対する忠告ではなく、一般論として。

 弁護しておきますが、僕自身がそう思っているわけじゃないですし、フランス人すべてがそう思っているわけでもない。多分、若い人ほどその傾向は少ないとは思います。つまり、そう思うのは年老いた人に多いのかもしれない。まーなんでもいいんですが。「ミニスカ=貞操の緩さ」というイメージなんて、高校の風紀委員じゃあるまいし…と思いましたし、また、

 売春婦のすべてがミニスカートを穿いてるなんて事実もなかろうよ…て思っていたんですけど、どうやらこのイメージ、ちゃんと根拠があったみたいなんですね。

まー、ちゃんと調べたわけじゃないので、根拠としては弱いし、フランスからちょっと逸れちゃうんですが、話は16~17世紀のスペインになります。

 こうした話を思い出すきっかけになったのは、僕が『ドン・キホーテ』を読んでいたことによります。この小説については説明は不要でしょう。『前篇』と『後編』がありまして、後者の出版が1615年。つまりそれくらいの時代の話です(ついでに、僕が読んでいるのは、岩波文庫版、牛島信明さんの訳で、前・後篇がそれぞれ3分冊になって計6冊あります)。

 「彼女は灰色のスカートをはいていたが、その短いことといったら、まるで不品行ゆえに切られたかのようであった」  (『後編(三)』、14頁)

 この箇所に訳者の牛島さんは注釈を施しておりまして、それによると、セルバンテスの時代にはこんな刑罰があった、と言います。

 「スカートを短く切るというのは、不品行に対する(とくに売春婦に対する)刑罰のひとつであった」  (同上、417頁)

 「へぇー」と思ってしまいましたね。刑罰として、不品行を働いたものは、その印として、ミニスカートを着用させられた時代があったんですね。罰則としてではなく、ミニスカートを穿くこと・肌を露出することが実際に女性自身に恥ずかしいことと思われたのかどうかはわかりませんが、少なくとも現実的に「ミニスカ=売春婦の記号」として通用した時代があったんですね。もし、こうした刑罰がフランスにもあったとすれば、先のフランス人の発言は、古い慣習に基づいたものなのかもしれません。

 そういや、日本のお隣、韓国では、1970年代ごろから、極度に短いミニスカートは、警察の取り締まりの対象になっていたというのを、先日新聞で読みました。さすが儒教の国…なんて素朴に思ってしまったのですが、どうやら、この短い衣類にこういうイメージは付き物のようですね。

 ま、ということで、大胆な恰好をなさる時はご注意を。相手を籠絡したい、という意図なら別でしょうが、相手の世代によっては勘違いされる場合があるかもしれない、という詰まらない教訓話に落着けときます…。


話題に沿ったフランス語の単語:

・la jupe →「スカート」
・la mini-jupe →「ミニ・スカート」

 「ミニ」を付けるのは日本語と同じですね。

作文してみました(間違いあればご指摘お願いします)。

・Si elle porte une mini-jupe, elle risquerait d'être considérée comme prostituée.
(彼女がミニスカートを着ていると、売春婦に思われかねない。)

まぁ…使いどころない例文だなぁ。

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Colère et Mélancolie

 今日は毒にも薬にもならないフランス語の話題で書きます。

 タイトルの2語 Colère と Mélancolie ――どちらも女性名詞です。

 Mélancolie は日本語にもなってます。「メランコリー」。

 Colère は「怒り」ですね。

 まぁ、どっちも基本的な単語なので、知っている方も多いかと思います。ですが、これらは語源が同じなんですよって言ったら、意外に思われるんじゃないかな。どちらもギリシャ語起源です。

 先に Mélancolie から。

 接頭辞の méla(n) はギリシャ語で「黒」を意味するそうです。メラニン色素ってあるじゃないですか。日焼けすると、日焼けの原因となる黒色の肌の色素のことですね。これも、この「黒」という接頭辞から来てるんです。フランス語では、Mélanine と綴ります。これも女性名詞。

 となると、Mélancolie の原義は「黒い怒り」とでもなりそうですが、そうじゃないんですね。しかし、「黒い○○」であるのは確かです。

 そこで、Colère の方に目を転じてみます。この語源は、実は伝染病の「コレラ」と一緒なんですね。これは、どういうことか?

 古ーい医学の知見によらなければなりません。ちっとややこしくなりますが、医学の祖と言われているギリシャ人ヒポクラテスの説に、「四体液説」なんてものがありました。今日の医学からすればバカバカしいなんて思ってしまいますが、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの液で人間はできているというものです。この説によると、人間の気質(怒りっぽいとか陰気だとか)ってやつも、4つの体液のバランスで説明でき、また体液のバランスが大きく崩れると病気になるとされていました。これが実は、結構バカにできない説でして、ヨーロッパでは――記憶がちょっと曖昧なのですが――18世紀くらいまでは、真面目に受け取られていたんですね。

 さて、「黒胆汁」という言葉には見てのとおり、「黒」という言葉が入ってますね。メランコリーの語源は、「黒胆汁」なんです。この黒胆汁、今も使われている「胆汁」という言葉とは異なって、今日の医学では使われない言葉みたいですが、メランコリーの原因は、この黒胆汁と考えられていたんです。また、陰気な人は、平素からこの体液を多く持つ人だとされていたんです。

 で、「怒り」の Colère ですが、これは黄胆汁。この体液が多くなると、怒りっぽくなると言われていたそうです。

 「コレラ」ですが、これも黄胆汁とかかわりがあるとされていたみたいです。これも今は病原菌が原因ですね。

 なお、現代では「コレラ」は choléra 、「胆汁」は bile と綴ります。

 嘘みたいなほんとの話。

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Homophobie

 帰国して初めてですが、フランスの思い出とフランス語の話題を書きます。

 タイトルのフランス語 Homophobie なんですが、お分かりになるでしょうか…?これ、どうやら古い辞書に載っていないみたいで比較的最近の言葉みたいです。

 正解は、「同性愛の人に対する嫌悪」という意味です。すっきりした訳語が日本語にはありません。

 また、「同性愛の人を嫌っている人」という意味を表すのには、Homophobe という名詞があります。

 ま、同性愛について、ぼちぼちと書きます。ただ、僕自身としては、同性愛そのものについて、「ああだ、こうだ」と発言する立場にはないので、ごくごく表面的なことしか書きません。

 そもそも、なんでこんな話題になったかというと、今、(知的な意味で)すごく刺激的な本を読んでて、同性愛についての記述が出てきたことに端を発しています。ぼんやりと思い出すことがあったので書きとめておこうというわけです。この本については、(無謀にも)後半で引用しながらこの議論を断片的に紹介しておきます。

 その前に、前半。思い出したこと。

 今思えば、写真を撮らなかったことをひどく後悔しているのですが、僕がブルゴーニュ大学の一角の喫煙所を利用していたときのこと。この喫煙所は、建物の前にあったのですが、この建物の戸口には、興味深いポスターが貼ってありました。

 それが、要するに、「Homophobie の人から嫌がらせを受けたりする場合には対応しますよ、ご相談ください」ってな感じのポスターでした。これが、一見すると何のポスターか分からないフランス語で書かれていました。気づいた時には、ふーん…と思っていたものの、どうブログに書いていいかも分からず、そのまま過ごしていました。

 今になって思い返してみると、スペインだったと記憶していますが、「Homophobie に対するデモがあった」なんてニュースをフランス語で聞いたことがあります。また、未確認なのですが、フランスにはどうやら、同性愛の人に対する差別的な言動をしてはならないという法律まであると聞いたことがあります(ま、これは人間が人間を差別してはいけないという理念さえあれば、当然のことなんですが)。これを高校生の口から聞いたのが僕としては驚きだったわけです。日本で高校生の時分の僕が、この問題について考えたことは、恥ずかしながら露ほどもなかった。

 Homophobie なんて言葉が存在するという事実が示すように、どうやら、ヨーロッパでは(アメリカも含めて)、この問題は、広く共有されているようですね。思うに名前をつけるという行為は、問題の認知とそして場合によっては人々の意識を変えることがありますね。セクハラ・パワハラなんていう言葉がそれじゃなかろうかなんて思うのですがいかがでしょうか。翻ってみれば、日本語に Homophobie に相当する言葉がないのは、それが問題意識として広く共有されていないということになるでしょう。僕は、被害者でも何でもないですので、実態はどういうものかは分かりません。しかし、恐らく Homophobie っていうのはさまざまな形で、しかし目につきにくい形で、日本でも存在してるんだろう、っていうのは推測がつきます。
 
 最近はテレビを見ていると、例えば「男性らしくない」男性の芸能人なんかが出てきて、この性愛に関する話題の抵抗感は減りつつあるのかな、なんて騙されてしまいそうになるんですが、多分ちがう。芸能人を見てると、フリなだけで、この問題を真剣に考えなきゃいけない問題として提示している人はいないですね。「キャラ」として、つまりあくまでいつでも剝せる「仮面」を被っているかのようなものとして、片づけられてしまっているような印象を抱きます。つまり、真剣に立ち入らなきゃいけない問題は回避して、茶化されてる、と思うのですがいかがでしょうか?

 一方、フランスでは件のポスターが示すように、またスペインではデモがあったように、どうやら、真剣な生の声が存在するのでしょう。

 これは蛇足ですが、最近、違和感を覚えるのは、「性同一性障害」という名称です。社会的性(ジェンダー)と自然的性(セックス)の自認に、齟齬をきたすということで、「障害」というあたかも病気のような名前を宛がうのは、どうなんだろうなんて思ったりしています。この名前付けには、あたかもこうした存在を排除するような力があるように思ってしまうのですが…。「ジェンダー/セックス」の区別は本当に自明なものなのかどうかの検討を含めて、ちょっと気になってます。




 後半部。こんなこと書いたのは、今現在、ミシェル・フーコーというフランスの哲学者の『狂気の歴史』という本を(日本語で;いずれフランス語で!)読んでいるからです。この問題をより正当に扱うには他の素材があるはずですが、とりあえず現時点ではこれということでご勘弁を。容赦なく難しい本から引いていますので、興味ないという方は無視してください。

※以下の引用は、『狂気の歴史』108~111頁(新潮社、田村俶訳)によります。下線強調は、僕。

 1726年3月24日、治安代官エローは「パリのシャトレ初審審判所の裁判官諸公」の立合いのもと、ある裁判を公開する。その裁判のおわりに、「エティエンヌ・バンジャマン・デショフールは、起訴状にしるされている男色の罪をおかして、正式に有罪を宣告された。罪をつぐなうため、このデショフールは、グレーヴ広場(セーヌのほとり、現在の市庁広場)で火あぶりの刑に処し、その灰はばらまかれ、その財産は国王に没収される旨、言い渡された」。処刑はただちに当日行われた。これはフランスでは、男色という行為にたいして下された最後の死刑宣告の一例であった。


 ま、同性愛ではないんですが、ここから始めないと、次の引用に続けられないので。

 フーコーによると、この懲罰は「奇妙な罰の軽減」だと言います。火あぶりなので、十分に残酷だよっ、と現代人の感覚からすれば思ってしまうのですが、それでも寛大になっているというのですね。ま、これはどうやら、男色の罪から宗教的な意味合いがなくなるということ、と、他のものとの比較で男色の罪が相対的に軽くなるということらしいですね。

 男色へのこうした寛大さに特別な意味づけをおこなうのは、道徳の立場からの有罪宣告であり、社会的で文学的な表現において同性愛を罰しはじめる、見せしめ(スキャンダル)の制裁である。男色者が最後に火あぶりの刑に処せられた時代とはまさしく、文芸復興期(ルネッサンス)の文化が完全に許容してきた同性愛にかんする抒情が、《博識にうらうちされた無信仰》の終りとともに消滅する時代である。かつて男色は、魔術や異端信仰と同じ資格で、しかも宗教的な不敬という同じ脈絡で有罪宣告をうけてきたのであるが、今ではもやは、道徳上の理由によってしか、しかも同性愛と同列においてしか有罪宣告をうけなくなった。今後は同性愛こそ、有罪宣告の主要な情状となるのであって、――それは男色の実態を補うものとなり、同時に、同性愛の感情にたいする恥辱(スキャンダリゼ)の感受性が生まれる



 上の引用から、男色とほぼ同列に扱われるようになったせいで、同性愛がスキャンダルという位置を占めるようになったということです。

 この頃の「道徳」意識を形成していたのは、重商主義政策の元で富を蓄えた新興「貴族」たるブルジョワジーの道徳というのがフーコーの分析です。「この時代にはっきり目につくのは、家族本位の道徳が性の倫理を大きく独占することである」。まぁ、なんでブルジョワに道徳意識が必要かっていうと、お家の存続にかかわるからですね。正確に言うと、お家の「世襲財産」が大事ってことになるのかもしれませんが。つまり、ある程度自前で行動の制約、お家を守るためのよき振る舞いというのが必要だということですね。何故かと言えば、もし、公序良俗を乱すような輩をお家から出せば、財産没収の上にお家取り潰しなんてことになりかねないからです。世襲財産を守るために、放蕩息子などは場合によっては投獄されたようです。

 ブルジョワ家族の目的は、手持ちの財産を増やしつつ、子供をつくって世代を絶えず新たにしていくこと、と簡単に言い切ってしまえるならば、このお家の道徳に同性愛なんて入り込む余地はないのは当たり前ですよね。

 神聖なるものは、もはや恋愛ではなく、結婚のみ、しかも公証人立ち合いのもとに法的に認められた結婚のみとなる。つまり、「結婚契約をむすぶこと以外には、恋愛はありえない」のである。家族制度が理性の範囲を定める。[…]
 西洋の恋愛の古来の形態のかわりに、新しい感受性があらわれる。家族から、そして家庭のなかで生まれる感受性が。それは自分の秩序や利害に合致しないすべてを、非理性の次元に属するものとして排除する。

 
 ちっと原文あたっていないので何とも言い難いのですが、結婚が「神聖なるもの」とはなっているのですが「神父の立ち合いのもとに神前で認められた結婚」ではなく「公証人立ち合いのもとに~」となっているのは、皮肉ですね。結婚にあっても宗教色は脱色されていることが分かります。

 こうして同性愛は、フーコーの見立てでは、このブルジョワ家庭道徳の価値観にそぐわぬ「非理性の愛」に属するということになるそうです。

 なんとなくわかるなー…。日本で同性愛者の動きが大きくならなかったことが。そういや、『身毒丸』という戯曲を書いた寺山修司は、かのミシェル・フーコー氏と対談しているんですよね。この戯曲は、たしか家父長制を素材にしていたはずです。ま、これから変わってくるのかもしれません。



 
 今回は、フランスのことも、フランス語のことも書いたので、ランキングバーナーを――思い出したので――はっつけておきます。

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交通マナーについて

 今から書くのは、福井県のネタとフランスのネタを絡めて書きます。福井については、かなり戯画化します。戯画化というものは、過剰な一般化を伴うのが普通ですので、乱暴な一般化をしながら「これが福井県である」と胸を張って書かせていただきます。
 
 当ブログをこまめにお読み頂いていた奇特な読者様であれば、僕がフランスで自転車乗って過ごしていたのは、ご存じだと思います。自転車に乗っていると何度か自転車の話になりました。話題になると必ずこんな文言が付け加えられました。「フランスでは自転車は新参者だから、自転車になれていない自動車運転者が多い。なので気をつけなさい」と。

 改めて日本に帰ってみると、「なんだ、日本の方が自動車のマナー悪いじゃん」というのが個人的な実感。日本では、信号のない横断歩道で僕が歩行者として待っていても、止まってくれた車は、巡回中の警察車両くらいしか記憶がない。フランスだと、一般車両が止まってくれるんですよね。凄いときなんか、歩道の信号が赤でも止まってくれたりね。さすがにパリでは見ませんでしたが、少なくとディジョンではよくあることでした。多分、教習所で歩行者優先を徹底的に仕込まれるのもあるし(教習車は本当によく止まってくれます)、歩行者も歩行者で赤信号を無視するのが割と当たり前だったりするので(ですが当然守るべきですよ)、自動車が気をつけなくてはいけないのは当然です。

 まぁ、福井っていうのは、田舎でしてね…。とりわけ若い人に多かったのですが、3・11以前には福井県と福島県を混同してるなんて輩は、よくいました。さすがに今、福島県と福井県を混同してのうのうと暮らしている人間なんていないと固く信じていますが、以前は事実としていたのです。まぁ両県とも原発が問題になっているので似てるっちゃ似てるんですが。福井の原発の多くは関西電力が運営してます。なので福井県は大阪などの大都市に搾取されてるわけですね。もう一昔前の言葉ですが、富める県が他県を搾取する構造を維持したまま、何が「地方分権」かと思うなぁ…。こういう奇妙な依存関係はゼロにはできないにしても、多少減らした方がいいというのははっきりしたのかなと思います。

 それは措いといて…

 福井県がいかに田舎か示すのに、未だに車社会だということが挙げられます。調べてないのですが、一世帯あたりの自動車所有率というものは、かなりのものなんじゃないかな、と思います。まぁ、はっきり言って、福井県には都市計画という考え方が寸毫もありません。どこからどう見ても出鱈目です。だって、今一番開発が急速に進んでいるところ(郊外型のショッピングモールの集合地)には、公共交通機関は皆無ですから。この辺アホか…と思わざるを得ない。福井の公共交通機関の不便性には目を見張るものがありますね。それでもやっていけるほどに、車の天下です。

 さて、
そんな車社会の福井にあっては、歩行者と自転車は存在しない

と断言しましょう。といっても、これは自動車運転者の意識にとってですが。少なくとも、自動車運転者は、歩行者と自転車は滅多にいるものではない、と考えているに違いない。それの一端を示すのが下の図です。

 ご存じのとおり、見通しの悪い交差点などで一旦停止が義務付けられているとこでは、自動車停止線の位置で止まらなければなりません。
普通は

 しかし、福井県のスタンダードな停止位置はここです。
福井県の停止位置
 つまり、停止線は平然と無視されて突っ込んできます。停止線の位置では道路状況が見えないというのでこの位置で止まるんでしょうよ。なんで歩道の手前で停止線が引いてあるか、露ほども考えていないのか、あるいは歩道から歩行者と自転車が出てこないと考えているのか、のいずれかでしょう。いずれにせよ、もし自転車が来てたら事故になりかねない、という勘定はあまりに田舎過ぎて麻痺してしまっているようですね。もし、都会でこんな自動車がいたら、田舎者めがっ!と嘲り笑ってやってください。

 これは危なっかしくて人には言えないことなのですが、僕は自転車に乗りながらこうした田舎根性丸出しの車と接触しないかなぁなんてこっそり夢想していたりするんですよ。もしぶち当たったら、自動車側の交通法規違反は明確なので、ゆすってやろうなんて考えているんですよ。嘘です。怪我はしたくないので、止まりますけどね。

 しかし、なんかなぁ、僕の個人的実感では、日本では自動車がでかい顔しすぎじゃね?なんて思うんだけどな。信号のない横断歩道を渡れずにいる人々を目にする度に、交通弱者を優先させるってのは教習所で習うだけで身についてるわけじゃないなぁ、と思う今日この頃です。この辺はフランスの方がよっぽどよく行き届いてる印象だったといことも、こうしたときに思い出すわけです。生身の人間がもう少し頑丈だったら、我が物顔でいい気になっている自動車を体当たりで止めてやるんだけどなぁ…

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